【社長ブログ】「学問のすゝめ」って平等論?
JOPS社長ブログ
cooperated by several associates
第1話 コミュニケーション ー 学生時代とは違う! (3回連載)
第2回 「学問のすゝめ」って平等論?
前回の終わりに、社会人になると学生時代に比較して、世代やバックグランドの異なる、多様な人たちとコミュニケーションを取る必要があるということを述べました。
ここで、コミュニケーションについて、少し考えてみましょう。コミュニケーションには非言語コミュニケーションと言語コミュニケーションに大きく分かれるということは聞いたことがあるでしょう。どちらの割合が大きいと聞きましたか?(明確なリアクションなし)
私が読んだ文献では、非言語コミュニケーション、特に視覚からのものの割合が大きいとのことでした。目は口ほどにものを言う、という諺があるくらいですからね。とは言うものの、やはり言語、言葉が基本であることは確かなのではないかと思います。そこで、言葉についてさらに考えるためにいくつかの例を見てみます。
例1は「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉です。この言葉を聞いたことがありますか。(8割ぐらいの人が挙手)これはどういう意味か、文字通りの意味、という答えになるでしょうか。どういう場面で聞いたか、という質問のほうがよいかもしれません。(挙手無し)
私が記憶に残るのは中学・高校時代にスポーツの対外試合に出場する選手たちを激励する壮行会とか運動会だったように思います。
そういう場面に使われるので、簡単に言えば、身体を鍛えよ、というような意味でよく使われているように思います。しかし、実はこの言葉は、英語では A sound mind in a sound body. であり、元々は「健全な肉体に健全な精神が宿ることを祈る」という意味だったという説もあります。現在の解釈とは違うようです。古代ローマの時代から現在に至るまでに、意味するところが変化してきた、ということでしょうか。
次に、古代ローマに比べればはるかに最近の例を挙げましょう。「学問のすゝめ」と聞いて何を連想しますか?
(挙手があり、福沢諭吉、天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、の答えあり)
そうです。確かにこの本の冒頭の文には「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」とありますが、この本は平等論について記したものなのでしょうか。原文では、この後、「されども」と続き、現実には差がある。その差は学ぶと学ばざるにある、という主旨の解説があるので、それで、なるほど、だから「学問のすゝめ」につながるのか、と理解できます。しかし、一般に福沢諭吉の言葉として「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」がある、というような理解が多々あるのではないでしょうか。
ちょっと横道にそれますが、「学問のすゝめ」は新書版も発行され、今も読まれている良書です。現代でも十分に有益な内容なので、ある程度社会人としての生活に慣れてからのほうがよいと思いますが、読んでみる価値があると思います。
さて、話を戻します。この2つの例は、長い時代のうちに言葉の意味が変わっていった例だと言えると思います。ちょっと最近の言葉に視線を移し、「情けは人のためならず」を取り上げてみましょう。これはどういう意味でしょうか? (多数の挙手があり、指名した方は正しく意味を述べました。)
はい、「人助けをすると、めぐりめぐって自分に返ってくる」という意味ですね。正解です。ところが、「情けをかけることは、その人のためにならない」と思っている人が少なくないという何かの記事を読んで、私は驚いたのですが、ひょっとしたら先の例のように時代と共に意味が変化していくかもしれません。
今日は正しい答えだったのでよかったです。この言葉については、今回の能登半島地震のような大きな災害が起こった時にこそ、真に意味するところを思い出し、実行に移すとよいのではないかと思います。もちろん、日常生活において心がけることができればさらに良いでしょう。
(第3回に続きます)